最近は死ぬのがこわくない

2022年10月09日

(このエッセイは題名を「死ぬのが怖いのがいつか解消できるだろうと思えるようになった」にして書き始めたのですが、変えました。) 


わたしは眼鏡をかけています。眼鏡をかけると遠くもはっきり見えます。外すとぼやけます。ぼやけて、間近のものだけ判別できます。見知った場所ならそんなに不便しません。部屋の中なんかは、外しても全然大丈夫です。

前回のエッセイ「死ぬのがこわい」では次のように書きました。

ーーーいまは暑いから、外に出るときサンダルを履いている。サンダルで外に出ると、今地震がおきたり、電車で誰かが凶器をもって暴れたり、テロが起きたら全力で逃げられないな、と思いながら歩く。ーーー

以上です。眼鏡をはずして町を歩くときも似たところがあります。前から歩いてくる人が不審かどうかわかりにくいです。爆弾が落ちていても近づくまでわかりません。

でも最近(ここ3,4カ月くらい)はスーパーやアルバイトの行き来に眼鏡をはずしてみることがあります。それが出来るようになりました。

サンダルで歩くのも、眼鏡をはずすのも、同じように万全の状態でいることを諦めています。こういうことが出来るようになってきました。つまり、死ぬことにたいして鈍感にいれるということです。

それに、冬になっていろいろなやる気がなくなってきたことが大きいと思うのですが、自分に対する未来の期待も減らすことが出来ているような気がします。

たとえば、来年から大学院に進学しよう、そして一流の何かになろう。とか、お金持ちになって親を旅行させよう。とかそういう大きな野望がいまは減ってきました。



なんか、ここまでかいてみて、別に死ぬのが怖いのがいつか解消できるのではなく、冬になって未来のことがますます考えられなくなっただけかもしれないと思い始めました。

前回のエッセイ「死ぬのがこわい」は2,3か月ほどまえ、死ぬのが怖くて寝れないときに書きました。たぶん、夏の湿度と暑さの中、タオルケットを掛けて、扇風機の音を聞きながら。夏の暑さと湿気は自分に現実を感じさせて、現実は現在を、現在は未来を感じさせます。未来の最終地点が死ぬことです。

今週は冬でした。今もセーターを着ています。寒さも現実を感じさせますが、時間とも、連想とも関係ない、ただの現実です。寒いから、温かくしないといけないなというだけのものです。

それとも、冬の寒さは ほんとの死に近いから、夏のように想像の死を考えて怖がる暇がないのかな。地震が来るのを想像しているときは、ああしてこうして逃げるぞ!と考えられるけど、実際に揺れると動けないように。

死ぬのが怖いのは季節性の恐怖心なのかもしれないね。また来年確認してみようか。


よくわからなくなっちゃった。いつもよくわからなくなる。これは通年。いまから、ゴミ出しのついでに外を散歩してみようと思う。外は夜で、雨が降っているけど、旅の練習として。おにぎりももっていく。

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