わたしと災害3 コロナウイルス

2024年04月01日
わたしと災害 3コロナウイルス

 

大学3年生が終わったころの春にはもう日本での感染者も増えてきていた。私は帰省するたびに単発バイトをいくつかしていた。その春は大手町かどこかのなんとか省の単発バイトが時給も高かったので1日行った。国家公務員がすたすた通勤していた。


コロナウイルスの感染者名簿のなにかの作業でオフィスには電話とパソコンの画面が1人1つずつあった。はじめに説明があり、各々作業に取りかかった。私は説明の意味がわからず何をすればいいかわからなかったので、パソコンの画面のコロナ患者のリストを眺めたりしていた。そのころはまだ日本国内の感染者が100人もいなかった頃じゃなかったかなと思う。


休憩時間に休憩したあとまたパソコン眺めたり受話器カチャってしてみたりじっとしてたら退勤時間になって、ゲートをくぐって退勤した。ちゃんと給料振り込まれてた。


人手は必要だけどひとりひとりに構っていられないくらい大変なのか、私が知らないだけで会社勤めって何もしていないってこともあるのか、わからなかった。東京の友達と遊んだり遊びの予定がコロナで中止になったりした。


大学も始まるので福岡に戻ったら「オンラインで授業をすることになりました」とメールが来た。


(通っていた大学は田んぼとか小麦畑とか山とか古墳とかを壊して建てているコンクリート大学だった。周りも大学の都合に合わせて整備している最中で大きな6車線道路が駅と大学の間に作られて、道路の両側は山と小麦畑と牛舎と学生マンションがあって、飲食店は数軒あった。

この光景はずっと慣れなかった。6車線道路と小麦畑との間の道を自転車漕いでいると体が膨張して爆発するんじゃないかという気分になった。深海魚が引きあげられると圧力で爆発するような感じというか、宇宙に放り投げ出されて重力がない感じというか。それが東京との差なのか、小麦畑と畑を壊して敷かれた6車線道路との差なのかはわからない。)


東京から戻ってきて大学付近の道を自転車でこいでいた。九州はまだ感染者が数名だった。道にも畑にも他に人がいなくて、春のいい天気だった。わたしの[疎開]のイメージはこんな感じだなと思った。


大学はオンラインになって出席しやすくなった。ごろごろしながら聞いていた。いすに座ってじっとしていないといけない時間がなくなって、腹筋が減り、いすに座っているのが前にも増して不得意になった。



ーーーわたしと災害これにて一旦完。どうしてわたしがここにいて、どうして人がここにもいるけどそっちにもいるのか、わかりませんーーー
無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう